田中の歴史
燕三条から世界へ。
田中衡機の歴史ストーリー。
時は、江戸末期。
田中の歴史は
「ます」づくりから始まった。
1840
1840年代
今から遡ること180年以上、新潟で油の行商をしていた大橋家の佐助が、油を売るときに使う「ます」をつくるため田中姓を授かり独立したのが田中家のはじまりです。
1856
安政3年
38歳の若さで田中佐助が他界。田中家継承のために婿を取り、その婿が田中佐造として升の製造を継承。初代佐造は長く田中家をもり立てた人物でした。
1903
明治36年
2代目田中佐造が田中佐造商店(田中衡機の前身)を立ち上げ。この年、農商務省より度量衡製造の免許を授かり、マスだけではなく、曲尺、棒はかりの製造を新潟県三条市三ノ町で始めました。
はかり屋魂、芽生えの時。
その名に魂を込めて。
1923
大正12年
4代目佐造の時代。衡機(はかり)製造への決意をあらたにし、田中佐造商店は、田中衡機製作所へ。
日本を一流の工業立国に。
大正天皇の近衛兵として仕えた経験もある4代目佐造は、会社の長でありながら、いつも国の行く末を考えていました。「日本を一流の工業立国に」という想いが、彼をはかりづくりへと邁進させたのです。
アットホームな社風はこの時から。
4代目佐造は厳しい性格ながらも、度々自宅に社員を呼んで酒を酌み交わしたり、桜の季節には皆で花見に行ったりと、非常に社員想いの社長でした。当時はまるで家族のような雰囲気だったと伝えられており、田中衡機のアットホームな社風は、この頃から続いています。
1936
昭和11年
新潟県度量衡検定所三条支所の官有地(三条市裏館)の払い下げを受け、工場を建設。
1939
昭和14年
新潟県三条市島田地内に鋳造工場を建設。
計量がダメになる時が、我が国が負ける時。
戦時中、衡機製造の要である鉄の割り当て量が激減。しかし4代目佐造は、「鉄製でないと精度の高い計量はできない!」「国に尽くすのはいいが、それは軍国主義のためではない。我々が尽力するのは、あくまでも産業の発展のためだ」と政府に具申。警察に捕まるほどの大事になるも、「計量がダメになる時が、我が国が負ける時だ」と説き伏せ、最終的には鉄の使用許可を取り付けました。
戦後の混乱期だからこそ、
人一倍、
「ただしさ」にこだわった。
1946
昭和21年
戦後間もない東京都千代田区三崎町にて、東京支店を開設。
ただしく ながく かんじよく
長く精度を保つために、はかりには修理・メンテナンスが必要である。そういった考えから、田中衡機は現在、新潟本社の他に全国5箇所に拠点を設け、各地のメンテナンスネットワークを充実させています。当時、4代目佐造がつくった東京支社は、その第1号支店でした。
1947
昭和22年
社名を株式会社田中衡機工業所に改組。個人経営を株式会社とすることで、経営の合理化と資金の拡充を図りました。
1948
昭和23年
本社及び工場を三条市南新保に移転。
この国のために、はかり屋としてできることを。
戦後、国の食糧増産政策を受け、米の重さを量るはかりを農家が各戸で1台ずつ買い求めた結果、タナカの機械式はかりが爆発的に売れました。この時期に工場を移転したのも、この需要を受け、生産体制を整えるためでした。ただし、この時も佐造は「はかりを売る」ということではなく、「日本の食糧増産に貢献する」という想いでやっていた、と伝えられています。
はかりの組み立て大会
田中たる者、実際にはかりの製造を行う工場スタッフだけでなく、開発や営業もはかりの組み立てができるようにならなければならない。その考えのもと「はかりの組み立て大会」を開催。部署を問わず多くの社員が組み立ての技術とスピードを競い合いました。
1952-1954
昭和27~29年
新計量法に基づき、基準天秤・硬度試験機など、各種設備を拡充。
苦労した、新計量法への対応。
1951年に、新しく計量法が施行され(それまでは度量衡法)、重さの単位に「グラム」の使用が義務付けられることに。タナカではそれまで、「グラム」と「貫」の両方の目盛りがついた台はかりを製造していたため、「貫」の目盛りを消す作業に追われました。
急激な発展。
多様化するニーズ。
はかり屋としての「度量」
が試された。
1960
昭和35年
多様化する顧客のニーズに合わせ、特殊工業用はかりの製造を強化。
ニーズに合わせたオーダーメイド。
1960年代頃からは、はかり単体ではなく、はかりを他の機械に組み込んで作業を効率化する「特殊工業用はかり」の製造、販売を強化。農薬や飼料の原料を量り混ぜ合わせる工程を一体化したものや、ベッド自体がはかりになっているものなど、顧客の要望に合わせたはかりを製造しました。
1971
昭和46年
新潟県南蒲原郡栄町に第二工場(鋳造工場)を建設。
はかりにも、デジタル化の波が。
1970年代になると、重量を電気信号に変換する部品が普及し、デジタル表示で数値が一瞬で分かるはかりが登場し始めました。タナカは顧客のニーズに対応しながらデジタル化への移行を進めていきました。
1978
昭和53年
同敷地内にトラックスケール製造工場を増設。トラックスケールの増産体制が整いました。
「ただしさ」を全国に。
販売拠点・サービス拠点を拡充。
1997
平成9年
大阪市東淀川区内に大阪営業所(現 関西支店)を開設。
2001
平成13年
指定製造事業者(質量計第1類)として経済産業省の指定を受ける。
ISO9002の認証を取得。
ただしさを提供し続ける責任を、改めて実感。
指定製造事業者として経済産業大臣から指定を受けた製造事業者は、その指定に係る工場または事業場において、型式承認を受けた特定計量器と同一の型式に属する計量器を製造したとき、一定の基準にもとづく自社検査をすることによって、検定に合格したものと同等とみなされます。つまり、検定が免除され、その計量器に自社で「基準適合証印」を付すことができるということです。この指定を受けるまでには、品質管理の方法、製造技術基準など一定の遵守すべき事項をクリアしなければならず、国内では20社ほどしか認められていません。
2002
平成14年
太平洋セメントの子会社だったアサノ精機(株)の事業を継承。
ISO9001:2000年版の認証を取得。
2003
平成15年
第二工場敷地内に本社・第一工場を新設・移転統合。
2004
平成16年
南九州出張所を開設、営業網の充実を図る。
関西エンジニアリングサービスを開設。
営業・技術・サービス部門の充実を図る。
2007
平成19年
東北営業所を開設。
JCSS (計量法校正事業者登録制度) の認定を受ける。
2008
平成20年
本社敷地内に第五工場新設。
2009
平成21年
元A&D機器を吸収合併し、福岡営業所を開設。
ISO14001の認証を取得。
2010
平成22年
関西支店、関西エンジニアリングを統合し、吹田市に移転。
MADE IN TANAKAを、
どこまでも。
2011
平成23年
田中衡機工業所初の海外現地法人「TANAKA SCALE VIETNAM」をベトナムドンナイ省に設立。
日本の田中から、世界のTANAKAへ。
タナカの世界への挑戦の第一歩として、これからの産業の伸び代が大きく、新しい工場も増え続けている東南アジアに新拠点を構えました。
2013.05
平成25年5月
新技術を搭載したパワートラックスケール「PDX」を発売。
国内初のトラックスケールの10年保証・リモートモニタリングなどを実現。
トラックスケールの販売力強化を図る。
2014.08
平成26年8月
本質安全防爆計量システムを開発、発売開始。
従来品より柔軟なシステム構成が好評を得る。
2016
平成28年8月
愛知県半田市の老舗のはかり屋、半田度量衡株式会社がグループ会社となる。
2018.06
平成30年6月
青森県八戸市に八戸営業所を開設する。
そこに、はかれる値がある限り、
私たちは、はかり屋に
できることの可能性を
どこまでも追求しつづけます。